2011年、福島から京都へ母と共に避難し、現在は東京の大学に通うA.Yさん。彼女は、つむぎプロジェクトにも関わってきた、紡のスタッフでもある。

2020年秋、地元福島を自分の目で確かめたいと帰省し、福島に住む父親と共に、避難区域に入る。

人が住めない町や、伝承館、フォーラムイベントに参加して、報告をまとめてくれた。

当時まだ幼かった彼女は何を感じたのか。彼女の勇気ある行動に感謝。

 


福島帰省における報告書

 

はじめに

 

10月24日から10月28日までの3泊4日、約2年ぶりに帰った福島だが、これまでの帰省とは違いかなり感じ方が違った。浪江町、双葉町、大熊町、富岡町、南相馬市小高町や東日本大震災・原子力災害伝承館(以下伝承館)、福島フォーラムで行われた「渡辺謙一特集 核を考えるドキュメンタリー」、東京電力廃炉資料館での記録を綴っていく。

 

 

初日(伝承館、浪江町)

 

福島に安く行きたかったのでバス予約をしていたのだが、当日になって一文字違いで駅名を勘違いして予約してしまったため、バスに乗り遅れ逃すという何とも滑稽なスタートを切り、やむなく新幹線で帰った。むしろ高くついた…。

福島に着いてまず初めに向かったのは浪江町。まず私の目に飛び込んできたのは「この先帰還困難区域につき通行止め」という看板。写真展やテレビで見てきた光景だが実際自分の目で見てみるとリアリティが増す。バリケードの前には何台か車が止まっていて、中には人が乗っていた。どうやら現地の方などが帰還困難区域に泥棒などが入らないよう自警団を結成し、見張りをたてているそうだ。私はそんなことすら知らなかった。自分の故郷である福島のことなのに実際私は何も知らないのだという現実を突きつけられたようにも感じた。車での道中でも多くの作業員が行き来しているのを見るが、実際帰還した人に出会うことはないし、あるのはフレコンバックの集積場ばかりである。

伝承会へ行く目的で向かった浪江であったが、新幹線で帰り予定より早く福島に着いたこともあり、「福島いこいの村なみえ」にてカフェドロゴス、エチカフクシマ共催の「原子力災害伝承館で考える」というお話会に父と参加。伝承館を事前に見学したうえで、感じたことなどを自由に話すお話会だ。私たち二人は伝承館に行く前であったが、行ってきた方がどのように感じたかなどを話している。そこには実際伝承館で語られる語り部の方も参加し、赤裸々に自身の思うことを語っていた。語り部の方には話してはいけないことの規制が存在している。「原発事故については語らない」ということ。そのことに対してある方が語り部の方に対し「原発事故や東電についてどう思っているか聞きたい。また聞いてみても答えないのはどうしてか。」と尋ねる。語り部の方は、「規制されている部分も少なからずあるが、これまで浪江や双葉といった地域はもちろん福島、東北は10年前について語ることが出来る場所がなかった。しかし、伝承館が出来たことによって語れる機会が出来て、当時のことを語れるようになった。しかし、実際は初めて登壇する方が大半で場数を踏んでいないし、しかも高齢者が多い。10年前の記憶をたどる、あるいは時間軸がちぐはぐだったりうろ覚えな部分は少なからずある。当時の事実を語れても、東電について原発事故について感じていることまで自身の中で整理が出来ていない方が多いから言葉に詰まってしまうのだろう。」と言っていた。それを聞いて、語りにくさから来る沈黙だけではなくてそれぞれの心の整理や葛藤はまだまだ大きく残っていることを改めて再確認した。全体的に、伝承館はあまり好印象ではない感じではあった。公共施設のわりにバリアフリー設備が整っていないことを指摘される方もいた。しかし、印象に残ったのは、「責任について何も触れていない」という意見だ。この後実際伝承館を見てみて、確かに全く「責任」について語られていない。国も東電も県も。そこには語り部29人すべてではないが、疑問を抱く方もいるそうだ。ほかにも自主避難者について書かれていない。どこか自主避難者を悪者にしているような、あくまでも残った方にフォーカスを当てた展示しかしていない。当時の当事者の感情や葛藤、苦悩、ストレスの表現が不十分である。そもそも何を伝えたいのかわからない。などなど議論は尽きなかった。

 お話会が終わり、バッチリ先入観をもって伝承館へと向かった。廃墟の中を抜けると、異質な感じで近代的な真新しい施設がたっている。これこそが「東日本大震災・原子力災害伝承館」である。実際に見てきて、展示の流れとしては原子力誘致から震災、事故に至るまでの経緯(誘致について、なぜ福島なのか、どうして原子力発電を推進していたのかなどの説明はない)と震災、津波の被害から展示ははじまり、事故後の課題、教訓などの説明。風評被害の回復。福島イノベーション・コースト構想なる復興展望で展示は終わる。伝承館を見て率直に感じたことは、この伝承館をどのように今度活かすのだろうという疑問だ。いずれ、私たちの世代もいなくなって、本当に震災や事故を知らない世代の時代がやってくる。その世代のためのアーカイブ施設としてあの伝承館を後世に残していくのであれば、改善しなければならない点は山のようにあるだろう。現在感じられることは「建ててみた」感である。「建ててみた」では伝承館の意義は何なのか。上っ面だけで原発事故を学んだと思い込んでしまう世代を生産するだけの施設には決してしてはいけないと思う。

 

 初日で感じたことは残る選択をされた方、愛する家や町、思い出から突然強制的に故郷を追われた方々の心情は想像してもしきれない。今日振り返って、改めて自主避難者の状況や苦悩、心情は自身が経験しているためすべてではないが、知っていることは多い。しかし、私が福島を離れている間にも福島で私と同じ時を刻んできた人たちに対する自分の理解のなさ、無知さに羞恥と衝撃を受けた。私はこの原発事故がもたらしたもののほんの一部しか見てきていない。福島県民でありながら、福島県民ならざる自分が今知らなければならないこと、考えなければならないことはなんだろうか。また、そのスタートラインに立ち、私は今度どのようにこの大きな問題に向き合っていかなければならないのか。そんな大きな問いを突き付けられた刺激的な一日であった。

 

 

3日目(福島フォーラムイベント)

 

この日10月26日は偶然でありながら「原子力の日」だった。

渡辺監督の映画を見た後は渡辺監督と小出先生のトークショーがあった。私は初めて小出先生と直接お会いした。小出先生は学術的な見解で線量の高さと人間が暮らせる限度のお話を主にされていた。「いまだに線量は高い現地に住まれている方に申し訳ないが、福島は本来住んではいけない土地なのである」ということを強調されていた。私はこのお話はもっともであると思っていた。しかし、会場の雰囲気はとても冷めていたのである。まるで「いまさらそんなことを言われても…」というような。福島に残っていらした方には、小出先生の言葉にほとんどリアリティを感じていないようなのである。でもそれもそうだと思った。10年福島で暮らしてきた方々はその生活が当たり前でいまさら線量が高いから住んではいけないといわれてもまるで現実感がない。きっとこれが他県の講演会なら全く違った反応だろう。改めて福島の空気感を実感した出来事であった。

 

この日は、避難という選択をとった者、とらなかった者の深い溝や空気感の違いを感じた一日であった。

 

 

4日目(富岡町、大熊町、双葉町、廃炉資料館、小高町)

 

この日は朝から飯館村へ向かった。飯館村は原発事故後数か月たってから避難指示が出された大変な場所というイメージを持っていたが、そのイメージは覆る。あまりにも普通だ。福島市からそこに向かうまでほとんど変化はなく、原発事故などまるでなかったかのようなとても普通な光景に衝撃を受けた。

そのあと、富岡町へ向かった。福島から飯館を通って富岡町に入ると初日で見た浪江とは比べ物にならい程の数で、どこもかしこも「この先帰還困難」の看板でふさがれている

まさしく10年前で時が止まった町だった。震災の爪痕が残ったまま。ガラスが割れたままのお店や、家の中がぐちゃぐちゃになっている民家。10年という年月を感じるとともに、ここに住んでいた方々はどんな思いで故郷をはなれどんな思いで今のこの街を見るのだろうか。と。自分には想像もつかない悔しさや悲しみがあったに違いない。想像してもしきれない現地の方の気持ちと、どう表現したらいいかわからない自分の感情に涙をこらえるのに必死だった。そして、四方八方行き止まりの看板で通せんぼされる、人の気配はない、この風景に異質や不気味さすら覚え、まるでリアリティを感じられなかった。「こんなことがあっていいのか」「ここには確かにたくさんの人の生活があったはずなのに」思いは尽きない。かつて人が住んでいた気配を感じるのに今は現地の人の姿は見えず作業員しかいない。

なんとも言えない感情を引きずったまま、「東京電力廃炉資料館」へ向かった。コロナの関係で本来4時間から5時間かかる施設見学をガイドがついて1時間で回るという強行メニュー。初めは映像を見せられる。主な内容は「私たち東京電力は原発は安全なものであると疑いもせず過信し、複合的な事故が起きることを想定せず、しかるべき措置を怠りました。それによって福島県民の皆様には多大なご迷惑を今もなおかけし続けていますことに対し、心からお詫び申し上げます。そしてこれからは福島県の皆さんにお詫びと一刻も早い廃炉作業を行って参ります」という内容だ。良心が痛む、だんだん東電がかわいそうだとすら思えてくる。「このまま許してあげたっていいじゃないか。」とまで思えるのだ。しかし、「じゃあ、なんでこんなにお詫びしながら、裁判は控訴してくるのだろうか」という疑問をふと感じた。しかし、ガイドさんはとても良心的で施設の印象はかなり好印象であった。先入観を強く持っているので、気になるところはたくさんあったが、東電職員はもちろんそれ以外の作業員の方々が毎日廃炉のために3000人以上も働いていることだけは忘れてはならないと思った。 

 

 

終わりに

 

私はこの帰省で自分が思っていた以上に「福島原発事故」の問題の深さを実感するとともに、福島に残る選択をされた方の10年間に少しは触れられたかもしれない。

 私にとってこの滞在はとても考えさせられることが多かったように思う。新たなつながりや出会いも得ることが出来た。少しずつ、自分の理解や自身がどのようにこの問題と向き合っていくかを考えるスタートラインに立てた機会だった。