宮城県から京都へ、子ども3人を連れて避難しているTさんは、普段とても明るく、お菓子作りやインテリアが好きで、将来お店をしたいという夢もある。彼女の故郷は福島の川俣町。長年病気と闘う母が心配で、おかずなどを作って京都から送っていた。コロナでなかなか戻れずにいる間、母の状況が不安定になり、傍で看病する父とのやり取りがずっと続いていたが、どうしても帰って母の顔を見たい、子どもたちも心配だがほんの少しの時間でいいから母に逢いたいとの相談で、今回久しぶりに故郷に帰った状況をありのまま聞かせてもらうことができた。



1029日 

帰省

 

昨晩

カレーを沢山仕込み

朝は無理やり子供三人起こして

嫌がられながらハグして

一人614分のバスに

乗り込み京都駅に向かいました。

 

子供たちを置いて帰省する

今回の福島の川俣町は、最近調子の良くない親の様子を見に行くことが

目的のためか、いつもの3分の1のテンションで新幹線に乗りました。

お土産は特にいらないと言われてたし

今回は志津屋のクリームパン3個だけ買いました。

 

両親ともに

体やこころを壊していて

わたしも心が疲れてしまっていたので、随分、悩んだ末に

前日に仕事を辞めてきたので

その

変な高揚感とけん怠感もあってふわふわした気分でした。

 

合わない職場で2年仕事をして

最後も隠れるように辞めたいと思ってたのに盛大に送迎してもらっちゃったせいです。

 

でも外は

天気がよくて空は秋の青空でした。

 

福島までは遠くて、道中、福島がもっと近くだったらなーとか、そもそもなんでわたし関西にいるんだっけ。なんてボーッと考えたりしてました。

 

 

親孝行するなら近くだなって正直少し後悔したりもしてました。

 


福島

 

那須を過ぎた頃から

ソワソワ景色をみて懐かしい福島の断片を探して思い出しやっぱりうれしい気持ちになりました。那須には素敵なカフェがあって懐かしいなーとか郡山は都会だったよなとか。デートはうすいだべとか。

 

福島駅で

新幹線を降りたことろで、TOKIOの城島が出迎えてくれました。

 

川俣まで1時間もバスがないので

昔行った中合というデパートに行きました。

中合は跡形もなくいちいのスーパーになっていて面白い商品がならんでました。

なんだかこちらか恥ずかしくなるネーミングのアイスなどもありました。

 

2階ではNHKの古関裕而の朝ドラ、エールの展示と原発事故関係の展示をしていました。 

朝ドラの方にはおばさまが3人いたけど原発の方は誰もいなくて過去の昔話みたいな扱いでした。現在進行形なのに。。

だよな。。と諦めながら写真を撮りました。

 


川俣

 

川俣に着くと目の前におおきな風車が2機ありました。

いいたてまでいな風力発電というらしくて

とても大きな風車がゆっくり回っていました。飯舘村で建てたもので川俣からは見えない約束が、建ててみたら思いっきり見えて、揉めたらしいです。 そんなことあるんだって笑ってしまいました。

 

飯舘つながりで

無人の飯舘の里山からか、イノシシが

やってきて畑のものも掘り起こし食べてしまうらしくて捕獲すると一頭20,000円と聞きました。

イノシシが子供を連れて里山にでてくることも

原発の人災という要因もある

と思うとイノシシが可哀想だと思ってしまいます。

 

また川俣の街中にドラッグストアやスーパーが何軒もできていました。

リンクスというスーパーは

 

川俣にあるまじきオシャレな冷凍スイーツが沢山陳列してあり、小さなコストコになっていてビックリしました。まじハイカラでした。

 


実家

 

実家に帰ってからは久しぶりに親に会い嬉しかったけど

具合が良くないので

家のことをして墓参りをして

あっという間にすぎていきました。でも

本当の空がある福島にかえってやっぱり安堵し生きてる感じがしました。

親はもちろん空気

土、山、畑がみんな受け入れてくれるみたいな目に見えないものがあるのかなと思いました。

 

10年経って子供も大きくなり、わたしもいいおばさんになり親

も歳を取り平等に月日は重なって、これからどこでどう生きようと考えなくてはならない時期が来たのかなと思います。

 

でも具体的なそれは

あんまり考えたくないことで

福島や東北に帰省すること、帰省したいこと、果たして実現できるのかってこと。

子供の気持ち、福島の親の気持ち、自分の気持ち。どれも中途半端でごちゃごちゃになって答えなんて出ないまんま時間ばかり過ぎていきます。

 

福島から京都へ帰る朝、母が かえらないでーって小さな声で言いました。当たり前に帰らないといけないと知りつつ発した

本心だと思いました。

 

少し泣きそうになったけど

 

私には

遠く京都に大切な三人の子供らがいて知らないところで日々頑張ってて。

 

うん、また来るよ。って言うことが

精一杯でした。

 

親も子供もどちらもとても大切でやっぱり

体がふたつあったら

って毎回思うし

 

大変な人が大変な時助けられないのは誰しも辛いと思います。

 


112

 

京都

 

9時に親と握手をして川俣をでて着いたのが3時。

途中イオンで野菜不足になってる子供らに野菜と果物を買いこんで家に戻りました。

文化祭の様子や部活の写真を

見せてもらいました。

子供らは安心した様子で

2年の次女はテンション高めでした。

 

震災から10年。まだまだいろいろな葛藤をしながらもなるべく前をみていくこと、淡々と日々の暮らしをすること、笑顔でいることが今わたしの目標です。

 

福島の娘のわたしから

京都の母のわたしに戻ってまたボチボチやっていきます。

 

 

ありがとうございました。